電気ドリルで破壊された鍵
神社本庁職員等が参集殿を占有
神社本庁が布団を持込み参集殿を占有
氣多神社は、祭典・神事を守ってきました。他の包括団体変更後も変わりません。
神社には、予期せぬ出来事にまきこまれることがあります。例えば、過去においては占領軍による統治、現代においては政治的な圧力・妨害や暴力団等の神社乗っ取りなどです。神社は、このような勢力に対して他の政治家に頼ったり、他の暴力団等に頼ったりして問題を拡大することがあってはならないのです。このようなときこそ神社本庁や県神社庁が神社と神職を守る時なのです。
しかし、こともあろうか氣多神社に対して政治的な圧力・妨害に県の神社庁が加わりその行為に対して傍観している神社本庁の組織的な欠陥を感じました。
氣多神社を守るために神社本庁を離脱し、神社を守れる他の包括団体に変更します。
一般的に、包括宗教団体と被包括宗教団体の関係は、教義・教典等に基づく主従関係を有するものであると考えられていることが多いようですが、「神社」においてはこれが当てはまりません。全国の神社は、それぞれが各地域に鎮座し地域特有の伝統文化を有した祭りを伝える独立した宗教団体であり、全ての神社に共通する教義・教典も存在しませんから、当然、神社本庁は、被包括下の各神社の上位神社としての性格を有するものではなく、全国の神社の互助会・連絡会的組織に過ぎないと考えられているのです(教義・教典によって規律された「本山・末寺」的組織をもつ仏教系の包括宗教団体等とは根本的に性格が異なります。)。
明治に入り国家が神社に関与しました。しかし、戦後、占領軍の政教分離政策において神道指令(昭和20年12月15日)が発せられると、神社は国家の関与をうけなくなりました。昭和21年2月2日付をもっていずれも国家が関与することが出来ない宗教法人(私法人)として本来の神社活動が可能になりました。その後、占領軍から神社を守るため、同年2月3日、全国の大半の神社が参加する形で東京に「神社本庁」が設立されたのです。
神社本庁の設立にあたっては、これを他の宗教団体と同じく「神社教」のような教団と位置づけ、全国の神社に統一的教義を持たせるとともに、管長制度を採用して管長に教義の採決権を認めるなど、神社本庁に強大な権限を与える中央集権的意見も出されました。しかし、そもそも神社は、統一的教義の存在を前提に発達してきたものではなく、地域ごとに、それぞれが自然発生的に発達してきたものであるから、それぞれが独立した宗教団体であると考えるべきであり、統一的教義によって全国の神社を拘束することはその本質に反すること、及び、神社本庁に強大な指導力を集中させてしまうと、時の権力が神社本庁に圧力をかけることによって全国の神社及びその氏子・崇敬者の信教の自由が容易に害されることなどの理由から、神社本庁は、全国の神社が互いに協力しあうための連盟的組織と位置づけられることとなったのです。
このような神社本庁の設立の経緯に照らせば、神社本庁はその包括する神社の上位神社としてこれを拘束する地位にあるわけではなく、独立した宗教団体である被包括神社の自治や信教の自由を最大限尊重しなければならない立場にあることが理解できるのです。そして、独立した宗教団体である各神社の宗教自治を重視する見地からは、神社本庁には、被包括神社内部の人事問題や宗教活動に関する見解の違い等を理由として、一方的に、宮司その他の神職を懲戒する権限は存しないと解すべきであり、また、被包括神社の固有の信教の自由を重視する見地からは、被包括神社の固有の祭典・神事等の宗教活動に関する事情を理由として、一方的に、宮司その他の神職を懲戒することも許されないことになります。全ての神社の規則に宮司の進退に関して責任役員の具申を規定している所以です。
平成16年に明治神宮が離脱した直後だったこともあり、氣多神社が離脱することを阻止するために神社本庁は、氣多神社に規則変更認証を取り消すべく行政不服審査請求を行いました。こともあろうか石川県知事認証を軽微な理由で国が取り消しました(後に東京地裁において国の認証取消しを違法とし石川県知事の認証を認めました)。神社本庁は、国の石川県知事認証取消を氣多神社の離脱阻止の最後のチャンスととらえ氣多神社の離脱が取り消されている間(約二ヶ月)に、氣多神社の責任役員会(氣多神社規則)を無視して三井を懲戒免職とし、さらに、責任役員の具申という手続きを履践することなく、違法に特任宮司を派遣して、氣多神社による再度の規則変更認証申請(申請には約二ヶ月かかる)を妨げたのです。
神社本庁と被包括神社の祭祀のありかたや教化活動の方向性が異なることがあった場合に、神社本庁が被包括神社を脱会(除名)処分にしたり、その離脱を促したりすることはあり得るとしても、神社本庁が、被包括神社の責任役員を無視し、宮司を独断ですげ替えて、被包括神社を乗っ取るようなことは、断じて許されないのです。
本件のように、責任役員会が正常に機能している神社においてまで、氣多神社規則を厳守することなく神社本庁の独断で宮司を免職し、後任宮司を派遣することが認められるのでれば、神社本庁からの憲法で保障されている離脱の自由を奪い、いつでも気に入らない宮司を免職することができるようになりますので、もはや、神社本庁の被包括下において、各神社の自治を守ることは不可能になってしまいます。本件の全国の神社に対する影響は計り知れません。
昭和18年12月 三井孝助宮司就任(東京での祭務官から国幣大社宮司に任命)
昭和23年 三井孝助宮司排斥運動(戦後、国が国幣大社宮司を任命しなくなり、地元社家(宮司家でない)でも旧国幣大社の宮司に就くことができるようになった。このころから一部の地元民によって、よそ者の三井宮司を排斥し、地元の神職を氣多神社宮司に据えようとする政治的な動きが出始める。石川県の神職は親戚関係で繋がりがあります。しかし三井宮司は、石川県の神社に親戚がいない)
昭和34年4月 三井秀夫氣多神社で奉仕を開始する(三井孝助宮司と一緒に奉仕したのは1年間だけ)。
昭和34年8月 三井秀夫権祢宜任命
昭和35年4月 三井宮司は伏見稲荷大社宮司に呼ばれて伏見稲荷大社に赴任。桜井基俊宮司就任(責任役員会で三井孝助宮司が桜井祢宜を宮司に推薦しました)
昭和35年7月 三井秀夫祢宜任命
昭和37年4月 桜井基生氣多神社で奉仕を開始する(桜井基俊宮司と一緒に奉仕したのは20年間)。
昭和37年5月 桜井基生権祢宜任命
昭和56年 桜井基俊宮司入院(桜井前宮司が病気入院したころから、桜井宮司の親戚筋が中心となり、寺家町や石川県神社庁羽咋支部において、息子桜井基生権祢宜を三井秀夫祢宜を越えて宮司にしようとする政治的な動きが始まる。)
昭和57年6月 責任役員会において、三井秀夫を宮司代務者に選任。(桜井基生権祢宜の親戚筋が中心となって、祢宜であった三井秀夫をさしおいて、桜井基生権祢宜(桜井基俊宮司の子)を宮司代務者にさせようととする政治的な動きがあったが、責任役員会で可決されることはなかった。)
昭和57年8月 桜井基俊宮司死去(74歳)
昭和57年11月8日 三井秀夫宮司就任、(当時権祢宜であった桜井基生氏の親戚筋が中心となって、宮司代務者である三井秀夫をさしおいて、権祢宜である桜井基生氏を宮司にしようとする政治的な動きがあったが、氣多神社責任役員会は、三井秀夫を次期宮司とすることを決定した。責任役員12人中2人(桜井基生氏の地元親戚筋)だけが宮司具申書に判子を押さなかった)
昭和58年3月 宮司就任後何ヶ月もたってから本吉二六元羽咋市長に「覚え書」に判子だけを押すように言われた。(「覚え書」は、本文はおろか「三井秀夫」の署名に至るまで桜井基生祢宜が手書きしたものであり、三井秀夫だけの定年制を定めた不公平で不穏当なものであった。当時羽咋市長であった本吉二六責任役員は、責任役員会の場において、「氣多大社の宮司は70歳80歳になってますます貫禄がつくので65歳でやめる制度はどうかと思うのでこれは今回限りとしたい」と発言した。)
平成9年4月17日 第一回覚え書による宮司進退の件で責任役員会を三井宮司が招集(「三井宮司はまだ若く、事業半ばでもあるから今辞めてもらっては困る。桜井前宮司は亡くなるまで宮司であった。」)
平成9年4月30日 第二回覚え書による宮司進退の件で責任役員会を三井宮司が招集(本吉二六責任役員から、「三井宮司が神職一級に昇進したら、それを花道に退任してはどうか。」という発言がなされるも、他の責任役員から「三井宮司が神職一級に昇進してからのことは、その後に協議すればよい。」との意見が出された。「不公平な覚え書での宮司交代はしない。」との結論に至った。)
平成10年6月19日 第三回覚え書による宮司進退の件で責任役員会を三井宮司が招集(覚え書は、本文と三井秀夫の署名まで桜井基生権祢宜が書き三井宮司だけの定年制という不公平性な覚え書での宮司交代はしないとの結論に至った)責任役員会に意見書を提出(桜井祢宜・本吉二六責任役員他2名の責任役員より、「覚え書」に従い宮司が辞任し、後任宮司に桜井基生祢宜を提案)
平成10年7月9日 桜井基生祢宜・本吉二六責任役員の代理人弁護士から、三井秀夫宮司に対し、三回にわたる責任役員会の結論を不服とし、「これまでの給料を返還して辞任しなければ、更なる強力な手段に訴える。」という趣旨の通知書が送付される。この通知書を受け、三井秀夫宮司が三林隆弁護士に法律的判断を委ねたところ、三林隆弁護士の見解は、「覚え書」に法的拘束力はなく、現在の責任役員会の意思に反することはできないというものであった。
その後、桜井祢宜や本吉二六責任役員らは、宮司が招集する責任役員会での適法な宮司交代を断念し、氣多神社の自治の妨害へと突き進んでいった。なお、この当時、本吉二六元羽咋市長の息子の本吉達也氏が羽咋市長を務めていた。
平成10年7月15日 「覚え書」による宮司交代は不公平だと考え、三回開催された責任役員会においても三井宮司の留任を支持していた松岡責任役員の辞任届が氣多神社に郵送された。(松岡責任役員は、元羽咋市長であった本吉二六責任役員の下で教育長を務めていた人物であり、本吉元羽咋市長と氣多神社の間で板挟みとなった結果、辞任せざるを得なかったものと思われる。この頃より、責任役員・総代の中で松岡氏と同様の理由で辞任を申し出る者が増加してきた。
平成10年7月17日 一町民を名乗る者から北國新聞羽咋総局宛に、「氣多神社の宮司交替問題で裁判ざたにまで話がもつれこんでいるとのことを耳にしました」という匿名の怪文書が郵送された。
平成10年7月27日 一崇敬者を名乗るから北國新聞羽咋総局宛に、「桜井側が、法的手段に訴えた」という内容の怪文書と「覚え書」が匿名で郵送された。なお、この時点で、「覚え書」は部外者には公開されていいなかった。
平成10年9月 寺家町会長の総会において、35対23で神輿渡御を中止することが決定されるなど、妨害行為は寺家町の秋祭りまで広がった。
平成10年10月 寺家町会長が率先して、氣多神社総代などに対して宮司辞任を求める一方的な署名運動を行った。
平成10年10月 一信者を名乗る者から、県内神職宛に、三井秀夫宮司を「オーム真理教と同じ』などと誹謗・中傷する怪文書(今後、寺家の秋祭り・氣多のおいで祭に影響があるという内容。)が匿名で郵送された。
平成10年10月27日 元羽咋市長本吉二六責任役員から通知書が届く(「有志役員会により、宮司を罷免し桜井祢宜を宮司に具申した」との内容)
平成10年10月30日 三井秀夫宮司が今井石川県神社庁長に対し宮司罷免に関する具申書等の複写を請求するも、石川県神社庁はこれを拒絶。
平成10年11月2日 三井秀夫宮司が、眞田正則責任役員及び橋幸男総代同席のもとで、今井石川県神社庁長・石川県神社副庁長と対談。
平成10年11月4日 三井秀夫宮司は、再度、今井石川県神社庁長に対して罷免に関する具申書等の複写を請求。
平成10年11月10日 今井石川県神社庁長は、三井秀夫宮司に対し、罷免に関する具申書等の複写を書面により拒絶。
平成10年11月 水野石川県神社庁羽咋支部長(現石川県副庁長)が、羽咋郡市の神職に対して署名運動始める
平成10年11月29日 寺家町会の総会開催。三井家に開催の通知は届かず、今崎元市会議員が、寺家町会と直接関係のない「覚え書」に関する話を持ち出して三井秀夫宮司を誹謗・中傷し、三井家を村八分状態に追い込んでいった。
この後、三井秀夫宮司の長男である三井孝秀は、寺家町の壮年団を理由なく除名された。
平成10年12月3日 寺家町奉賛青壮年会役員会(後に、三井秀夫宮司に対する名誉毀損となる看板を立てた中心的組織)が、正月の氣多神社への奉仕に協力しないことを決定。
平成10年12月16日 石川県神社庁に責任役員変更届け提出。
平成10年12月17日 今井石川県神社庁長は、本吉二六元羽咋市長とともに、神社本庁を訪問。
平成10年12月21日 石川県神社庁が、氣多神社の提出した責任役員変更届を神社本庁に進達することなく返送。その後、三井秀夫宮司は、責任役員変更届けを再提出。
平成10年12月24日 石川県神社庁は、再度、氣多神社の提出した責任役員変更届を神社本庁に進達することなく返送。
平成11年1月25日 石川県県神社庁顧問、参与、協議員宛に対し、一の宮地区の住民を名乗る者が、匿名で、三井秀夫宮司を誹謗する怪文書を送付。なお、同日、上記と全く同内容の中傷文書が、元市議会議員でもある今崎総代の名前で石川県内の神職に送付されている。
平成11年2月17日 北國新聞に、地元町会が平国祭(おいで祭り)をボイコットすることを報じた記事が掲載。元市議会議員である今崎総代から、おいで祭り関係町会長に宛て、平国祭(おいで祭り)をボイコットすることを促す文書が送付された。
平成11年3月10日 眞田正則責任役員が、平国祭(おいで祭り)の関係者(今崎元市議会議員がボイコットを促すような電話や、文章を送付したところ)に対し、神社として、正式な声明を文書で発するとともに、関係町会長宅を訪問するなどして、平国祭(おいで祭り)の重要性を説明し、協力を求めた。
平成11年3月18日 平国祭(おいで祭)はじまる。立寄先210箇所(政治的な圧力・妨害により21カ所程度が招待を取りやめた)。この頃から引き続いて行われた妨害活動によって、おいで祭りの招待先が減少していった。
平成11年3月30日 石川県神社庁の氣多神社の運営に対する介入に対し、その根拠について返答を求めた。
平成11年4月5日 石川県神社庁が、三井秀夫宮司の解任等を求める具申書等を神社本庁に進達。
平成11年6月30日 氣多神社が、石川県への提出書類を石川県神社庁羽咋支部へ提出。
平成11年7月31日 石川県神社庁が、独断で、氣多神社の提出した書類を石川県に提出せずに氣多神社に返送。
平成11年9月14日 三井秀夫宮司は、石川県神社庁に対し、協議委員会議事録の開示を求めたが、石川県神社庁はこれを拒絶した。
平成11年9月14日 大穴持像石神社に石川県神社庁羽咋支部長であった水野氏や加藤参事らが派遣され、三井秀夫宮司による祭典執行を妨害した件につき、石川県神社庁に説明を求めた。
後に、今井庁長から、「説明できない。」との回答。
平成11年10月4日 神社本庁総務部長及び秘書部長が、三井秀夫宮司に対する免職具申の件に関する調査の為に来社(離脱阻止の為の宮司懲戒免職の際には、神社本庁の関係者が調査に訪れることは一度もなかった。)
平成11年10月30日 神社本庁は、氣多神社宮司罷免を受け入れず、具申関係書類を提出者に一括返戻した。(神社本庁憲章第12条第2項により)
平成11年11月28日 元羽咋市長本吉二六元責任役員らが、北國新聞・中日新聞の折込チラシ(「氣多大社を正常化する会(仮称)設立趣意書」と題する書面。)により、三井秀夫宮司を誹謗・中傷した。
平成11年12月 三井宮司を誹謗中傷し名誉毀損する内容の看板を設置する(後に裁判の結果、「氣多大社を正常化する会」の元羽咋市長本吉二六と元羽咋市議会議員今崎と寺家町会長松田と一の宮町会長石津に対して看板撤去命令と百万円の支払いを命じる)
以降、あらゆる方法で氣多神社への介入・妨害が続きました。
上記のとおり、3回に及ぶ責任役員会の結果、責任役員会の決定による適法な宮司交代が不可能と判断した本吉二六元羽咋市長と桜井祢宜は、平成10年7月9日、弁護士を通じて氣多神社に対して宣戦布告をしたのです。そして、責任役員会の決定を無視し、一宮地区住民や石川県神社庁羽咋支部の神職を巻き込み、平国祭(おいで祭り)等を妨害し、本吉二六元羽咋市長らが三井秀夫宮司の名誉を毀損する看板を神社の周囲に立てるなどの違法行為に及んで、さらにマスコミ等を利用して宮司排斥運動を展開していきました。氣多神社の責任役員は、神社自治を無視した妨害行為に対し、静観していました(政治家に頼んだり、署名運動を展開するといった対抗措置を一切採りませんでした。何故なら、争いを拡大させないために)
責任役員会は、祭りを妨害したり本庁に対する手続を邪魔する石川県神社庁に失望し、このような神職に対して注意すらできない神社本庁の体質に疑問を抱くようになりました(神社本庁は県の神社庁長の人事権をもたない。県の神社庁長は氣多神社の人事権をもたない。)。
宮司の進退は、神社自治において信教の自由の元、氣多神社規則の下で責任役員により行うものです。戦後、占領軍から神社を守るために神社本庁が設立され占領軍も去り神社本庁としての役割を終えていました。全国の神社は、神社本庁に属する意味がなくなり、現在の神社本庁は、地方の神社に神社本庁職員が天下りするようになり、神社教の様な組織に変貌してしまったのです。神社の宗教活動に介入するようになりました。地方の神社は、崇敬者の目線に立ち宗教活動を行い目まぐるしい時代の変化に対応しつつ宗教活動を展開してきました。しかし、神社本庁は、地方の神社の崇敬者の目線から外れてしまい神社本庁の尺度で各神社の宗教活動を見るようになり、かなりのギャップが生じてきたのです。
氣多神社が神社本庁からの離脱を決意した理由は、石川県神社庁の神社の祭りへの介入や妨害により、これ以上神社本庁の包括下で宗教活動を続けることは、かえって氣多神社の神社自治を危うくし祭りや地域の伝統文化を維持することを困難にする危険があると判断したためです。変貌してしまった神社本庁に属する意味が全くなくなりました。
平成17年9月11日 氣多神社責任役員会において、全会一致により、神社本庁との被包括関係の廃止及びそれに伴う規則変更を決議。(神社本庁に属する意味がなくなった。属していては、祭典・伝統等を守れなくなり全国崇敬者の思いを受け入れられない)
同日、法に基づき信者その他の利害関係人に対して規則変更案の要旨を公告するとともに、神社本庁に対する通知書を発送(翌日9月12日到達)。
平成17年11月22日 氣多神社は、石川県知事に対して規則変更の認証申請書を提出。
平成17年11月28日 石川県知事が、上記規則変更を認証し、氣多神社に対し、規則変更認証書を交付(これによって神社本庁を離脱)。
平成17年11月28日 神社本庁が、氣多神社の離脱を阻止するため、石川県知事宛てに規則変更を認証しないように求める「通知書」を送付。
平成18年1月18日 神社本庁が、文部科学大臣に対し、石川県知事のした氣多神社規則変更認証の取消しを求め審査請求を申立てる(審査請求1)。
平成18年1月26日 平野吉夫(本吉二六羽咋市長の時羽咋市助役)ほか2名の名義で、文部科学大臣に対し、氣多神社規則認証の取消しを求める審査請求が申立てられる(審査請求2)。
平成18年2月1日 石川県知事が審査請求1に対する「弁明書」を提出。
平成18年2月9日 石川県知事が審査請求2に対する「弁明書」を提出。
平成18年2月21日 氣多神社が審査請求1に対する「意見書」を提出。
平成18年3月1日 氣多神社が審査請求2に対する「意見書」を提出。
平成18年5月16日 文部科学大臣が、変更後の規則に、記載事項の不備があるという理由で、石川県知事の認証を取消す旨を裁決。(神社本庁関係者をはじめ包括団体の関係者を多く含む宗教審議委員会により審議される)
平成18年5月18日 氣多神社においては、文部科学大臣に指摘された不備を訂正した上で再度の規則変更を請求すべく、責任役員会の招集通知を発送。
平成18年5月18日 絶妙なタイミングで平野吉夫元羽咋市助役ほか2名の名義で、神社本庁統理宛て三井秀夫宮司の「懲戒具申書」が石川県神社庁に提出される。平成18年6月30日まで懲戒免職に関する動きを知らされていなかった。事前に知っていたかのような神社本庁の素早い動き。
平成18年5月20日 絶妙なタイミングで僅か2日後、石川県神社庁は、三井秀夫宮司の懲戒免職を求める「副申書」を添え、上記「懲戒具申書」を神社本庁統理宛てに進達。この間、石川県神社庁から三井秀夫宮司に対して事情聴取等の調査が行われたことは一度もなく、そればかりか、懲戒具申書が提出された事実すら連絡されなかった。
平成18年5月26日 氣多神社責任役員会開催。文部科学大臣の裁決の理由となった変更後の規則における記載事項の不備を是正し、改めて規則変更を行うことを決議。同日、神社本庁に対し通知書を発送。利害関係人に対する公告開始。
平成18年5月29日 絶妙なタイミングで一の宮地区(本吉二六元羽咋市長出身地区)で回覧板による署名運動(本来署名運動をしたらまず氣多神社に提出するが、何故か神社本庁だけに提出)
平成18年6月 神社本庁理事薗田稔氏から、氣多神社宮司に対し、本庁に留まるようにとの説得あり。三井秀夫宮司は、氣多神社宮司として、神社本庁と協議することを了承。
平成18年6月 上記薗田理事と三井秀夫宮司の協議を受け、神社本庁副総長田中恒清氏が薗田理事と氣多神社離脱の取扱いにつき協議。田中副総長から薗田理事に対し、「わかった。それならこちら(神社本庁)の動きを止める。」という趣旨の発言あり。この時点で懲戒免職の手続きが進んでいることを知らされていない。
平成18年6月16日 絶妙なタイミングで神社本庁総長から氣多神社に対し、「祭祀の厳修をはじめ神社の尊厳性の護持について改善方通知の件」と題する書簡が送付され、守札のインターネット頒布の中止等を求められる。これを受けて氣多神社は速やかに指摘された行為を中止。
平成18年6月23日 絶妙なタイミングで羽咋郡市氏子会が署名運動(本来署名運動をしたらまず氣多神社に提出するが、何故か神社本庁だけに提出)
平成18年6月30日 謀ったかのごとく氣多神社に来て調査もしないままいきなり神社本庁秘書部長から三井秀夫宮司に対し、「『氣多神社宮司懲戒具申書』につき弁明を求める件」と題する書簡が到達。同年7月18日までに弁明書を提出するようにとの指示。
平成18年7月18日 三井秀夫宮司が、神社本庁懲戒委員会宛てに『氣多神社宮司懲戒具申書』に対する意見と題する書簡(弁明書)を提出。
平成18年7月中旬 神社本庁田中副総長から薗田理事を通じて三井秀夫宮司に対し、「できれば懲戒委員会を開きたくないので、退職の意思を公的に示して欲しい。」との打診があるも、三井秀夫宮司は、円満解決に向けて協議する間は離脱の手続を一時見合わせるが、現段階での辞任については拒絶する旨を回答。
平成18年7月25日 神社本庁懲戒委員会において、氣多神社宮司免職具申について協議。(後の裁判において,神社本庁は,懲戒委員会議事録の開示請求に対し,議事録は作成していないと主張して頑として開示を拒んだ。)
平成18年7月27日 神社本庁田中副総長から薗田理事に対し、「(三井秀夫宮司を)懲戒にはしないこととなった。本庁への復帰と守札のインターネット頒布の中止が好印象だった。後の処理は総長に一任となった。ついては、離脱はしない旨の文書を8月6日(氣多神社の認証申請が可能になる日)までに出して欲しい。それを受けて、自分が石川県(石川県神社庁)を押さえに行く。三井と厚見と自分の三者会談をしたい。」との連絡があった。
平成18年8月5日 氣多神社責任役員会開催。三井秀夫宮司が、薗田理事と田中副総長の神社本庁への復帰への心温まる動きは信頼できるということを説明し、責任役員会は、8月8日に予定されていた規則変更認証申請を一旦見送ること、及び、申請の時期等については宮司に一任することを決議。
打田元神社本庁渉外部長が介入(懲戒内容が厳しい内容なので宮司を退くことを要求)。
神社本庁秘書部長に懲戒委員会の情報開示要求するが拒否される。
平成18年8月6日 規則変更認証の申請を一旦見送ることを神社本庁総長宛てに通知。
平成18年8月29日 いきなり神社本庁が、三井秀夫宮司や氣多神社責任役員に何らの連絡もしないまま、突如として三井秀夫宮司を懲戒免職処分とする(当日までに懲戒免職理由並びに特任宮司派遣理由を開示しない。後に神社新報で一部内容を知ったが,正式な懲戒免職理由は裁判が始まってからはじめて告げられた。)。同時に、後任宮司に石川県神社庁長厚見益樹を特任(本来、責任役員会が存在する神社に宮司を特任することは認められていない)。神社本庁寄り(離脱反対)の祢宜1名権祢宜2名を違法に派遣し氣多神社を乗っ取ろうとした。
平成18年8月30日 午前中に三井秀夫の代表役員解任登記及び厚見益樹の代表役員就任登記の申請がなされる。氣多神社宮司免職辞令が氣多神社に到達。午後、石川県神社庁長厚見益樹が、神社本庁の職員、顧問弁護士、その他配下の者約30名を伴って氣多神社を突然訪れ、神社本庁から宮司に任命されたと主張し、三井秀夫に対し宮司事務の引渡し及び社務所の明渡しを求める。以後、9月11日ころまで、連日、神社本庁の職員や石川県神社庁関係者が氣多神社を訪れ、宮司事務等の引継を強行に要求。
平成18年9月11日 石川県神社庁長厚見益樹及び神社本庁の職員らが数十名で氣多神社を訪れ、職員の制止もきかず、参集殿を不法に占拠して立て籠もり、さらには、社務所の鍵を破壊するなどの違法行為に及んだ。
厚見益樹の指示による参集殿の不法占拠は翌日夕方ころまで継続され、三井秀夫宮司は不法占拠者を刑事告訴し、羽咋警察署はこれを受理した。この事件後、厚見益樹らは氣多神社へ押しかけることを中止した。
社務所の鍵を破壊し、実力行使によって神社に入り込もうとした厚見及び神社本庁職員らの行為は、地方の神社を力ずくで支配下に置こうとする現在の神社本庁の本質を端的に現しています(不法占拠者らは起訴猶予処分になりましたが、今後の同種事件の発生により全国の神社の宗教自治が害されることを防止する為にも、氣多神社としては、検察審査会に対する不服申立を検討中です。)
上記のような神社本庁や厚見前石川県神社庁長の行動については、理解できない部分も多々ありますが、私たち氣多神社の責任役員は、神社本庁と厚見前石川県神社庁長に対し、数回に渡って氣多神社社務所での話し合いを求めてきましたが応じようとしませんでした。
東京地方裁判所において、石川県知事の離脱に伴う規則変更が合法であるという判決を受けました。これにより、氣多神社の離脱が認められ、三井秀夫宮司に対する神社本庁の懲戒免職処分並びに特任宮司派遣が無効であることも明らかとなり、特任宮司として厚見氏が三井宮司を氣多神社から排斥しようとして申立てていた社殿等の明渡等断行仮処分申請も取下げられ、ようやく根本的な解決に向かうことができます。
責任役員の具申により神社本庁統理が宮司や神職を任命します。神社本庁は、統理が選んだ宮司や神職を信頼することは当然だと考えます。何か問題が起きたときに神社本庁は宮司と十分な話し合いをし原因を追及し解決に向け努力すべきだと考えます。今回の神社本庁の統理が選んだ宮司を信用しないで、なんの話し合いや調査をしないでいきなり宮司を懲戒免職をしたり責任役員を無視し特任宮司を派遣したり鍵を壊して神社を占有しようとする行為は異常なことです。宮司や神職を懲戒免職にするのであれば神社本庁統理にも任命責任があると思います。神社本庁統理の宮司や神職の任命の重さを神社本庁は今一度考える必要があると思います。
今後、私たちは、ホームページを通じて神社自治の大切さを述べていこうと考えています。次回掲載予定は、「宗教法人法12条1項12号相互規定における懲戒免職規定と特任宮司規定の不備」です。
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